(暗くてやな話だなぁと思うけど、いつか書かないと昇華されないっていうか...なんで思い切って書いてしまった。はぅ〜
)
私が憶えている、一番古い、人間以外の家族はカナリアのチーコ。
もしかしたら私が生まれる前からいたのかもしれない。
チーコはオレンジ色、う〜ん、というかピンクグレープフルーツの色というべきかな。時折、かわいいきれいな声でさえずっていた。キュウリや菜っ葉を食べたり、陶器の水入れで水浴びしたりしていた。
手乗りではなかったから、一日中カゴの中にいた。
てっぺんがゆるやかな半球体になっている円筒形のそのカゴは、緑色の鉄製で、とても重かった。掃除がしやすいように、底面が引き出せるようになっていた。
そのころ私たち家族は、公団の3階の部屋に住んでいた。昔の鉄筋コンクリート造りで、2DKにしては広々としている。ベランダもとても広かったので、子供用の鉄製の青いブランコも置いてあった。庭付きのテラスハウスタイプの棟に住んでいたKさん一家が、引っ越して行ったときにくれたブランコだ。
天気の良い日中は、チーコのカゴはブランコに置かれていた。小鳥はたくさん日光浴をしないと「クル病」になるからだ、ときかされた。夕方になると家の中に入れ、眠る時にはカゴの上からカバーをかけてあげていた。
あの日も、チーコのカゴはベランダに置かれていた。
父はまだ職場から帰って来ず、母は具合が悪いといって寝込んでいた。日が暮れてきて、私はチーコのカゴを家の中に入れてと頼んだ。でも母は起き上がってはくれなかった。私は「チーコが死んじゃう!」と何度も何度も繰り返し叫んで母に頼んだ。それでも母は起きてくれない。カベの方を向いたまま「あんたが入れてあげなさいよ」と言う。
私は哀しくてくやしくて、ベランダに出て、必死でカゴを持とうとした。でも、鳥カゴは大きくて重くて、びくともしなかった。引きずることすらできなかった。というか、ムリに引きずろうとしたら、カゴが倒れて、中身がぐちゃぐちゃになって、チーコが死んでしまうのではないか...という恐怖が先に立ち、思い切って動かすことができなかったと言った方がいいかもしれない。
もう冬で、私の誕生日の前だったか後だったか、だから4歳か5歳かどちらかだった。そのくらいの子供には、鉄製の鳥かごを持つことはできないのだろうか。それとも私の根性が足りなかったのだろうか。
鳥カゴを入れることができなかった私は、大泣きをしながら更に母に執拗に迫った。カゴが重くて持てないからお母さんが入れて、と。
すると母は、私も具合が悪くてできないから、毛布をかけてあげればいいでしょ、というように応えた。
なんで母は起きてくれないんだろう。不思議でならなかった。今でも不思議だ。病院に行くでもなく、お医者さんが往診にくることもなかったのだから、大した病気ではないはずなのに。せいぜい風邪とか、生理痛とか。あるいは、当時、父の職場は危険な状態だったので、そのせいで精神的に参っていたのかもしれないが。
でも、鳥かごを家の中に入れる、たったそれだけのことができないなんて。
兎に角、母にこれ以上頼んでも無駄だと悟った私は、自分が赤ちゃんの頃に使っていた、犬の絵が描いてある小さな毛布をチーコのカゴにかけた(この毛布は子犬のコロを連れ込んだ時にも使ったものだ。その話はまた今度)。そして毛布の上からカゴを抱いて、しばらくの間「チーコごめんね」と言いながら泣いていた。
そして部屋に入って眠った。
朝、チーコはカゴの底で冷たくなっていた。
毛布なんてかけても、何の役にも立たなかったのだ。
いや、もしかしたら、毛布の上からさらに冬用の分厚い布団をかけてあげれば助かったかもしれないけど。
チーコの亡骸を見たとき、母がどうしていたのか、泣いていたのかどうか、私は知らない。
もし、私があのときの母だったら、もしも本当に起き上がれないほど具合が悪いのだったら、娘にお隣の人か下の階の人を呼びに行かせただろう。私が憶えているかぎりでは、どちらのおばさんもとてもいい人だったし。
いいや、あのとき、私だって、隣人に助けを求めるなんて思いつかなかったわけだし(もちろん、子供だったからなのかもしれないけど)、母にだって母の事情があったのかもしれないし、一方的には責められないのだけれど。
いくら考えてもわかるはずがない。私は、長じてからも、その理由を母に尋ねることはできなかった。もちろん、今でも。
だから。
チーコは私たちのせいで凍え死んでしまった。
確かなことは、それだけ。
もう、あれから36年も経ってしまった。
そしてチーコの死は、永遠に私の枷になるのだろうな、と想う。